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平成30年7月豪雨

日本青年団協議会 副会長 中園 謙二

 平成30年7月豪雨。6月28日から7月8日にかけて西日本を中心に全国に降り注いだ豪雨により、私が住む岡山県倉敷市は被災地と呼ばれる地域になった。幸いと言って良いのかはわからないが、自宅や家族、自分や妻の実家などに被害はなかった。被災の様子がニュースで流れた7月7日には、全国からたくさんの心配の声をいただいた。本当にありがたいと思う。


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 7月6日、この日は夜勤初日だった。昼間に睡眠をとり、夕方に起きるとまだ雨が降っている。携帯の災害を知らせる緊急アラームが頻繁に鳴り、この雨はただ事ではないと感じ、土手を挟んで川が流れる実家に連絡をしたが、大丈夫とのこと。自宅前の用水の水量も大丈夫そうなので、大雨の中出勤した。非常事態なので、仕事中にリーダーの判断で、スマホで家族と連絡をとったり情報収集をしたりしても良いということになった。24時ごろ妻に連絡したが家の周りは問題ないとのことだった。県団のグループラインでもそれぞれ無事が確認でき安心したが、総社市(そうじゃし)の工場が爆発し、岡山市の自宅まで爆音と衝撃が来たとの情報もあった。爆発が大雨と関係があるかは不明だったが、とにかく異常事態に不安が募りながらも工場の浸水対策や排水のチェックをしていた。  深夜3時ごろだったと思うが、エネルギーを統括している部署からガス使用設備をすぐに停止してほしいと依頼があった。私が担当している設備はガスを止めてしまうと復旧に多大な時間と労力が発生し、被害総額もどれだけになるか想像もつかないため上司に連絡することにした。その後上司から、「ガスを生成している工場が冠水で止まってしまっているため設備を止めざるを得ない。申し訳ないが対応してほしい」と連絡があり、設備を止めることになった(伝わりにくいかもしれないが、何十年に一回あるかないかというレベルの事態である)。

 7月7日、夜勤明けの帰り道に何があってもいいように飲み水とすぐ食べられるパンやカップ麺などを念のため補充し床に就く。夕方、設備が復旧できそうということで17時ごろ会社から呼び出しがあり出勤。いつも使っているバイパスが渋滞していると情報があったので迂回していくことにした。家から500メートルもいかないところのお宅の庭が浸水していたり用水路と田んぼがつながってしまっていたり、少しの違いで自宅も浸水していたかもしれないと思うとぞっとした。その夜のうちに、職場では自身の担当設備は何とか復旧を終え、とりあえず自分は日常が戻ってきたと感じた。

 7月8日、この時初めて映像で、倉敷市の被害の大きさを知った。テレビでは2011年にも見たような映像が、見知った地域名で放送されていた。会社の同僚が、自宅の裏山にずれが生じて奥さんの実家に避難しているという話も聞いた。Facebookでは、知人宅が浸水し大変心を痛めているとの投稿を見た。何とかできないかと思い、ご迷惑でなければ7月12日にお手伝いに行かせてほしいとメールをした。

 7月9日、この日は月曜日ということで常昼勤務者が出勤してきた。身の回りの安否を伺うと、奥さんの実家が二階まで浸水しヘリコプターで救助された、友人の家が浸水し手伝ってきたがひどい状態だったなど、あちこちで壮絶な状況だった。おかしな話だが、本当に身近で大きな災害が起こったんだと現実味がわいた。

 7月10日、仲間に連絡しこれから自分たちにできることの相談や、情報を共有していこうと話をした。各地で支援の動きが起こる中で、被災地に住む自分たちも何かしなければ、という焦りにも似た感覚があった。

 7月11日、知人より手が空いていれば手伝いに来てほしいとの返信があったので必要なものはあるかと尋ねたところ、マッチがあれば買ってきてほしいとのことだった。夜勤明けの体を引きずり買い出しへ向かった。どんな状態か聞くこともはばかられたので、マッチのほかにカップ麺、飲料水、絆創膏、消毒液、ティッシュ、トイレットペーパー、塩飴、それからお子さんが4人おられるのでお菓子などを購入。自分用の長靴も買おうとしたがどこも売り切れだった。実家で大量の雑巾と、長靴をもらって準備を整えた。

 7月12日、現地へ。浸水被害の大きい真備町(まびちょう)に入ろうとしたら、警察が交通整理をしていて行き先を言わないと通してもらえない。知人から、真備の○○に行くと言ってほしい、また道路が混むので高速道路で鴨方町(かもがたちょう)まで行って矢掛町(やかげちょう)から入ったほうが無難だと連絡をいただき、その通りにした。道路が空いていたことが意外だった。真備に入ると道路は泥で汚れ、信号は止まっていた。

 知人宅に到着し、さっそく家の中の掃除を手伝わせてもらった。私の腰から胸のあたりまで水に浸かった跡があった。家の廊下はリビングを除いてシートで養生してあり、土足で上がってくださいと促された。部屋の壁やトイレの壁、床をひたすら一緒に拭きながら、知人が口にする「あー、床板がふやけて浮いてるなぁ」「ピアノはもう使えないだろうな」「壁紙もはがれているな」「この引き出しは無事そうだ!あ、……やっぱりそんなわけないか」などの一つ一つのつぶやきが胸に刺さって、本当にやるせなかった。聞けば去年の11月に自宅をリフォームしたばかりだそうで、4台の車も水没でダメになり、本当にどうしていいかわからないと。ただ、こうして皆が手伝いに来てくれて話ができるだけで安らぐし、一人じゃないんだと活力がわいてくるとも語っていた。家族だけで自宅の片づけをするとやり場のない感情が処理できず苦しい、とのこと。なんと声をかけて良いかわからず、そうですね、大変ですね、と繰り返すことしかできなかった。それでも、「うちはまだ2階が無事だしまだマシなほうだから」「水は怖いね。でも井戸水が出ていなかったら掃除なんかできなかったし。本当に自然には逆らえないね」と、終始笑顔を絶やさず話す姿がまたやるせなかった。  帰りに「うちはIHがやられて、料理できないから持って帰って」と差し入れでいただいたであろう野菜を持たされた。近いし、困ったらいつでも連絡ください。また来ますね。というのが精いっぱいで帰路に就いた。

 帰るころには被害の大きかった中心地の通行止めが解除されていたので、そちらを通って帰った。陥没した道路。水の中に立つガードレール。決壊した川の堤防。田んぼの中に大破した車。ガードレールに乗り上げたトラックのコンテナ。道端に積み上げられた瓦礫。崩れた斜面。自宅前だろうか、積みあがった瓦礫を呆然と見上げる人。目を覆いたくなるような、現実とは思えないような光景が広がっていた。帰る家があり、トイレも風呂も使えることに、なぜか罪悪感を覚えた。


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 私は2011年の災害以降、微力とはいえ復興支援、防災、減災活動を続けてきた、つもりだった。しかし今回身近なところが被災し、本当に無力感に襲われた。だからと言って立ち止まってはならない。今まで培ってきたことを自分の街のために生かしていかなければ。ここから始まる長い復興の道のりを、一歩一歩でも進んでいきたい。倉敷市は被災地と呼ばれる地域になったが、私はほぼ被災していない。だからこそ私に何ができるか考えて、動いて、支えていかなければならないと思う。