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生きている理由

宮城県仙台市(宮城県気仙沼市階上地区出身)

滝田 真央

 私は当時、階上(はしかみ)中学校3年生でした。

 3月11日は卒業式の前日で、もらったばかりの卒業アルバムを手に昼前には帰宅しており、兄も高校の卒業式を翌日に控えていたため、帰宅していました。1、2年生は、卒業式の準備のために学校にいたとき、あの地震がきました。

 あまりの揺れの大きさと長さに、私と兄は「家が壊れてしまうのではないか」と心配し、外に出て二人で抱き合いながら揺れが治まるのを待っていました。兄が持ってきてくれた靴を履いて階上小学校へ向かいましたが、歩きながらも余震が来ていたため、トランポリンの上を歩いているようでした。階上小学校の校庭では、小学生だけでなく、地域の方も集まり始めていました。建築から40年近く経っている校舎から余震のたびに鳴り響く揺れやきしみの音が、私たちの恐怖をあおっていました。母が迎えに来てくれたので、私たち親子3人はいったん自宅へ荷物を取りに戻りました。避難する準備をしている最中に祖母も帰宅し、4人一緒に改めて階上小学校へ避難することになりました。

 階上小学校へ向かっていたら、国道45号線の道路上にゆっくりと津波がかぶっているのが見えました。私以外の人も小学校に居ては危ないと感じて、高台にある階上中学校へ向かいました。みんなで声を掛け合い、兄は祖母をおんぶして中学校に向かう途中、何かが心配だったのか、バイクで海の方へ向かう人もいました。

 階上中学校に着いてからも強い余震が続きました。中学校から見える海に、死の恐怖を感じ、私は母に「私たち死ぬの?」と聞いてしまいました。即答できない母に、ここまで頼ってしまったことに後悔しました。母は、ゆっくりと「死ぬ時は、みんな一緒だよ」と声をかけてくれました。

 中学校には同級生も集まってきていました。皆で安否を確認したら、3人が来ておらず、連絡も取れていないことがわかり、明日は卒業式…マジで…みんなで号泣しました。泣いたら気持ちを切り替えられたのか、みんなで体育館に向かいました。先生方は色々な対応に追われていたんだと思いますが、まだ避難所の設営ができていませんでした。階上中学校はずっと避難訓練に力を入れていたので、私たちは卒業式用に設営されていた体育館を後輩たちと一緒に皆で片付け、避難所を設営しました。

 避難して何日か経ったころ、避難所になっている体育館の中を4分割にして、私たちの卒業式が挙行されました。行方不明になった同級生の中にはまだ見つかっていない人もいましたが、私たちも在校生も先生方も、避難している人たち皆が前に進むために挙行されたのだと思います。卒業式を終えてからも、高校の制服が無いまま高校入学。高校の体育館が使えず、6月に入学式が開かれました。不便なことはありましたが、友達もできて楽しい高校生活を送ることができました。

 高校卒業後は地元を離れてウェディングプランナーの専門学校へ進学し、先生からの薦めでカメラマンの仕事に就きました。専門学校に入ったばかりのころは、極度のホームシックで急に実家に帰ることもありましたが、今ではここに私の居場所があることで、目標や自分のやりたいことが見つかりました。「実家に住みたい」より、「家に母がいるからいつでも帰れる」の方が自分にあっているように感じています。

 私は海で育ちました。津波のこと、地震のことは学んでいましたが、実際に体験してみて動揺しました。災害のことを学んでいなかった人たちは、何もできなかったのではないのか……私たちも、学んでいたからこそ「やんないと(やらないと)」と、皆のために動けたのだと思います。だからこそ、知ってほしい。聴いてほしい。学んでほしい。他人事かもしれないけれど、あの時、確かに地震が来て、津波が来ました。このことが素直に話せて、気持ちを共感できて、みんな(家族)で健康に生き続けることが、復興への道筋だと思います。

 私の震災の話を聞いていた人が皆、深刻な顔になってしまい「私の話で暗くなってしまった」「……話さなければよかった」と感じる時もありました。そんなこともあったけれど、今は前向きに生きている自分を見てほしいです。そして、みんなと前向きに生きたいです。