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HOMEWeb生きるWeb生きる(年表)石﨑 貴史(岡山県倉敷市)

平成30年7月豪雨で被災して

岡山県倉敷市真備町 真備町青年団 石﨑 貴史

1 茶色いお水を捨ててきて

 「2階に避難することにしました」平成30年7月7日朝、友人へのLINEの返事。前日の夜から大雨特別警報と避難指示が出され、自宅がどこまで浸水するのかも分からないのに…。「避難所に行けなかったら垂直避難」と安易な考えを持っていた。

 正直、避難所に行くことを躊躇した。家の裏を流れる用水路から水があふれ始めた時、何度か避難所へ行こうかと迷ったが、幼い3人の子ども(4歳、2歳、0歳)を連れて避難所に長時間滞在できるとは思えなかった。 隣に住む実家の両親も「ペットを置いては行けない。」と自宅の2階に残っていて、近所の住民も数多くが2階に残っていた。

 雨はほとんどやんでいたが、その後も水かさは増え続け、1階は床上浸水し、しばらくして停電。昼頃には駐車場の車も水没し、姿が見えなくなった。 2階トイレの排水管はゴポゴポと音を立てはじめ、濁った水が階段から一段ずつ上ってきて、その度に不安が増していく。2人の娘も「茶色いお水を捨ててきて」と、異常な事態を感じ取っているようだった。



 救助を待つ間は、本当に生きた心地がしなかった。 消防から「2階の屋根に逃げる覚悟をしておいてください」と言われたため、2階まで浸水してきた時に備え、子供には浮き輪代わりのペットボトルをネクタイでくくりつけたり、家の中にある浮きそうなものをかき集めてベランダに並べたりしていた。

 夕方が近づくと、ニュースを見た全国の友人から連絡がたくさん入ってきた。その頃には、自衛隊のボートが救助に向かっているという情報も入ってきた。 暗くなるとヘリコプターは飛ばなくなり、不気味な静けさの中、遠くから時々ボートのエンジン音が聞こえていた。友人が、「倉敷市長がNHKの電話インタビューで、徹夜で取り残された人を救助すると言っていた。」と教えてくれたのは心強かった。

 18時頃に階段を2段残して水位の上昇は止まり、2階の床は浸水を免れた。精神的なダメージと不安はこの頃がピークだったような気がする。

 21時頃に子どもを寝かしつけ、23時を過ぎた頃、叔父が知人と手漕ぎボート(他の人が救助で使ったものを貸してくれたそうだ)で助けに来てくれた。 まず実家の両親を救助してもらった。その後、私たち家族は消防のボートで救助された。途中、何軒もの2階の窓から救助を求める声が聞こえ、その都度、消防士がメモをしながら「場所を覚えた。後で必ず助けに来るから頑張って」と声をかけていた。 消防のボートは3人一組で、一人が先頭で水中の障害物を棒で確認しながら、もう一人がエンジンの操作、もう一人がその他のサポートを行っていて、訓練されたチームワークがとても頼もしかった。

 高梁川(たかはしがわ)の土手付近でボートから降りると、近所に住む祖母の家族が一度避難所に行ったものの、耐えきれず自宅に戻ってしまっているとのこと。 近所にはまだ多くの人が取り残されている様子を見ていたので、いつ救助されるか分からない。「行こう。」と叔父と2人、手漕ぎボートで救助に向かった。 車では5分もかからない距離だが、手漕ぎボートでは1時間くらいかかった。途中、自衛隊のモーターボート(定員20人程度)、消防のモーターボート(定員5人程度)、消防団の手漕ぎボート(定員5人程度)とすれ違う。「お気をつけて。」 と互いに声をかけながら私たちは祖母の家に向かった。周囲は真っ暗で、懐中電灯の明かりだけが頼りだった。暗闇の中、途中の家々から何度も「助けてください。」という声が聞こえてきたが、私たちにはどうすることもできず、心が痛んだ。 必死の思いで祖母を救助して高梁川の土手付近に戻ると、すぐ他のグループが私たちの使っていた手漕ぎボートに乗って救助活動に向かっていった。私たちはそれぞれ別の親戚の家に向かって真備町を出発したが、既に夜中の2時を過ぎていた。

2 多大な支援に感謝

 翌日の7月8日、地元の友人から水が引いてきたという連絡があり、被害の状況を確認に行った。まだ水が引いて間もないためか、周囲は泥まみれで滑りやすい。 庭先には流されてきた大量のゴミが残っていて、家の中に入ると、横倒しになった冷蔵庫や畳、家具類が散乱し、泥水の匂いが充満していた。この日から朝夕は、激しく道路が渋滞していた。 夜には、翌日からの片付けに必要なものを集めて回った。夜中にもかかわらず、親戚の知人が軽トラック、水を入れるタンク、自家発電機などを貸してくれた。私は親戚の家に残り、妻子は四国にある妻の実家に避難させることにした。


 7月9日から片付け開始。用水路からポンプで汲み上げた水(数日後には日中、試験通水といって水道から飲用不可の水が出るようになった)で床の泥を流しながら、まずは冷蔵庫の中の生ゴミなど、腐りやすいものを処分した。 その後、貴重品や思い出の品などを取り置き、災害ゴミの搬出を始めた。木や布の製品は基本的には処分するという方針ですべて運び出し、庭先に並べると、あっという間に大量のゴミでいっぱいになった。 その後、軽トラックの荷台に載せて、車で5分ほどの焼却場へ運んだが、ここでも激しい渋滞で、1回の往復に1~2時間かかった。 冷蔵庫や洗濯機、大型家具、畳など重たいものの搬出が大変だったが、義兄弟が四国から乗ってきてくれたリフター付きのトラックが活躍した。中型のダンプカーで駆けつけてくれた人もいて、1週間でほとんど運び終えることができた。

 ただ、家財をほとんど失っても、特に親戚家族の全面的なサポートは心強かった。いくら感謝してもしきれないと思う。 他にもトラックや物資を提供してくれた親戚の知人、宿直明けにもかかわらず朝から手伝いに来てくれた友人、災害対応業務の傍ら駆けつけてくれた職場の仲間、トラックや車を手配して力仕事も担ってくれた義兄弟、 何度も手伝いを申し出てくれた同僚、募金活動をしてくれた同僚もいた。チャイルドシートや子供服を分けてくれたり、ここには書き切れないが、多くの方に支えていただいた。本当にありがとうございました。

3 職場復帰とその後

 8日間の片付けの末、7月17日から仕事に復帰した。上司や同僚の温かな支えにより、精神的にも身体的にも不安なく、仕事を再開することができた。 職場復帰後は週末に少しずつ片付けを進めながら、みなし仮設住宅(民間アパート)を探すことに。少しでも早く妻も職場復帰させ、家族皆で一緒に暮らせるようにしようと考えていた。

 ところが7月下旬、長女が川崎病で1か月ほど入院することになった。退院まで長女と妻は岡山の病院、次女と長男は四国の実家、私は病院と職場を往復する家族バラバラの生活が続いた。

 8月下旬には長女が退院し、9月からみなし仮設住宅に入れることになり、新たな保育園も決まった。10月からは妻も職場復帰できることになった。 その間、妻の職場では限られたメンバーにもかかわらず、3ヶ月以上仕事を休ませていただいた。心から感謝。

本稿の執筆時点(平成31年3月)では、被災から8カ月経っているが、近所では家屋の解体工事が進み、15軒ほどあった家のうち半数が更地になった。私の家も内部解体が終わった。 建て替えが終わり近日中に戻ってくる家、2階で生活を続けながら改修を終えた家もあり、少しずつ復興に向かっている。近所の公園では、地域のボランティアの方が花壇の手入れを行っていて、ほぼ元どおり。今年もそろそろ桜の花が咲きそうだ。

4 おわりに

 後日、片付けをしていると、ハザードマップが出てきた。「100年に1回程度の確率(2日間で225mmの降雨)」で予想される浸水深は5m以上。 浸水リスクがあることは知っていた。にもかかわらず、大雨特別警報と避難指示が発令されても避難所に行かなかったこと、家族に危険な思いをさせてしまったこと、救助が必要になり消防の方に迷惑を掛けてしまったことを恥ずかしく思った。

 7月7日の様子 中央奥に見えるのは岡田小学校

 12月29日の様子 被災当時は一体が浸水していた。

 当たり前のことだが、地域の災害リスクをきちんと理解した上で、「避難勧告(遅くとも避難指示)が出されたら避難所へ行くこと。垂直避難はあくまで「避難所に行けなかった」時の最終手段として考えること。」を痛感した。 また、多くの方からの支援をいただき、助け合うことの大切さ、ありがたさも実感した。地域の復興にはまだまだ時間がかかりそうだが、前向きに、少しずつ再建に向かっていきたいと考えている。

 最後になりましたが、全国の皆様からいただいた、多大なご支援につきまして、深く感謝申し上げます。

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